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スタッフブログ

我に七難八苦を授け給え

2010年12月27日

 

 

 

 

三日月に主家尼子再興を祈った、戦国武将の鏡、悲運の

山中鹿介の尽忠の心は、後世の史家をして、日本人の

心をうってきた。

1577年秀吉は中国征伐で上月城を陥落し、尼子勝久、鹿介

に守備させたが、秀吉安土城に凱旋したスキに毛利五万の兵が

奪回の為押し寄せてきた、信長、秀吉も救援の為合計4万の兵を差し向

けるも、戦局は好転せず、信長より上月城を 放棄せよとの命のため

引き上げるが、勝久、鹿介を救出しようとするが、

士卒を見捨てる事は武士道に反すると、応じなかったが、糧食尽きた、

毛利方に降伏の使者を送るも、尼子勝久切腹ならば、士卒は助命、

しようとの返事、再三にわたって主訓の助命を嘆願したが、許されず

屠腹して果てた、鹿介が死出にお供しなかったのは、毛利一族を

刺して主君の無念を晴らそうとした為、

鹿介は毛利方より5千石の知行を与えると言い渡され、護衛の武士に守

られながら城を出た、

途中高梁の河原で背後より不意打ちにあい、斬首され、首桶に塩漬け

され静観寺の門前に晒し首にされた、

不憫に思った当時の住職は輝元に願い出て門前に埋葬し、彼の弧忠を

偲び、秘かに大名の礼を以って戒名を授け、その菩提を念じた

幸盛院殿大誉浄了大居士

因みに鹿介の墓は高梁観泉寺と、因幡鹿野幸盛寺にも祭ってある


上記文面は全文福山市、鞆の浦臨済宗 正覚山 静観寺に置いてある

山中鹿介幸盛公略史より転載しました

写真は佐用の友が自然薯を作ったと届けてくれました

先日のゴルフでお世話になったからだと、馬鹿にして

本当にいい友です

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